松陰が残した数々の名言の中から、そのいくつかを紹介します。
印象に残った箇所をいくつか抜粋し、感想をメモしました。
志のある生き方
読書は松陰にとってまさに滋養であり、活力の根源で、一寸の時も惜しんで本を開き、眠気に襲われると、夏は蚊にわざと血を吸わせ、冬は裸足で雪の上を走って睡魔を払った。
牢獄での余りの寒さに眠れない厳冬の夜明けは、頭が冴えて想念がまとまるとして、その逆境を悦んだ。投獄、自宅幽閉の不自由な状況にあっても、今ある場所を「価値ある場所」と信じてくじけない、松陰は不屈の精神の持ち主だった。

【時間は自ら「追え」。決して追われるな】
劣悪な環境でも、瞬間瞬間を大切に生きることができたのは、「常に死と向き合っていた」からではないでしょうか。
やるべきことは山ほどあるが、人はなにかと理由をつけてサボろうとします。
目標を設定し、自分の現在地とゴールまでの距離を把握し、少しの時間も無駄にできないよう、自分を追い込むことが必要だと感じます。
松陰は学生たちにこう説いた。
「読書をせよ。だが学者になってはいけない。勉強は知識を得るためのものであり、人は行動することが第一である」
そして、「議論よりも実行を」が口癖であった。

【本を読んだ。知識を得た。で? その後が大切】
いま流行りの、「アウトプット」です。
本を手に入れるだけでも大変な時代。松陰はさらに「アウトプットせよ」と言っています。
一生懸命本を読み、抄録する。
で?
松陰は、ここで止まるなと言っている。
そして、抄録した内容をもとにアクションプランを設定する。
- 〇〇に考え方を変える。
- 〇月〇日から、〇〇を始める。
- 〇〇していたのを、〇〇に変更する
あとは、アクションプラン通り行動するだけ!
松陰に名言が多いのはなぜ?
松陰の数々の名言が今でも多数残っているのは何故だろうか?
松陰は書くことを大変重要視していたのだ。
松下村塾の塾生たちに、読書する時間の半分をメモ(抄録)に費やすようにと指導したうえ、自分が熟成に話す際も、話の内容をスラスラ書いていちいち渡していたとされる。

【読書する”目的”を見失ってないか?】
【抄録】とは。
《名・ス他》原文から要点を書きぬくこと。ぬきがき。特に、学術文献などの内容の要点をぬき出して、短くまとめた文章。
本を流し読みをしているだけでは、ほぼ記憶に定着しません。
「大切なところはどこだ?」と、意識しながら読むことで、脳が情報の取捨選択を行ってくれて、記憶に定着するのだと思います。
こうして、大事な箇所を抜き書きすると、記憶から離れにくくなります。
また、抜き書きした内容に対して、自分流に要約し、行動に移すためのアクションプランまで書き記すことができれば、それは本からの知識というだけでなく、自分が作った「知恵」になるのです。
読書は最もよく人の考えを変える
「およそ読書は物事の要所をつかみ取ることが重要である。まとまりがなく、いい加減にすれば、書物の本意をとらえられない」と書いている。
本の内容を正しく理解し、自分の血肉とするためにはどうしたらよいのか。
奇兵隊などで活躍した、天野御民は、「松陰先生、つねに門人を諭して曰く、『書を読む者はその精力の半ばを筆記に費やすべし』」と松陰から教えられたといっている。

【じっくり咀嚼しなければ、消化不良になる】
ただ読み流すだけでは、文章の中から要所をピックアップすることはできません。ゆっくりでもいいので、十分に意識を高めて読書することが肝要です。
一文一文咀嚼しながら読む。
内容を噛みしめ、「ここはうまい」と思えば、抜き書きし、自分流に要約する。
さらに、書きだしたノートは繰り返し目を通すようにする。
そのために、丁寧に心を込めてノートをとること。
繰り返しノートを見る未来の自分をリスペクトする気持ちが大切です。そうすれば自然と気持ちのこもったノートとなるはずです。
読書して重要なのは、学んだことを実行、行動に移すこと
冊子を紐解けば、人の戒めとなるよい言葉が林のように、おどりあがらんばかりに書いてあって、読む人の心に迫ってくる。しかし、今の人はこれを読まず、まし読んでも実行しない。誠に読んでこれを実行しなければ、千年、万年と受け継いでいくものにはならない」
読書で学んだことを実行してこそ、「本当の意味で教養ある人」といえるのである。

【やってみて、工夫改善することで後世受け継がれる】
必要な情報はスマホ1台で取得できる現在、本というツールの重要性が失われつつあります。
例、「過ちて改めざる これを過ちという」という格言を調べたい場合
時代 | 必要ツール | 検索に必要な知識 | 備考 |
ネット普及以前 | 本 | 著書名(論語) | 論語に書かれていることを知っていなければならない |
情報化社会 | スマホ | なし | 調べた結果は、コピペできる |
ネット普及以前では、基礎知識がなければ答えに辿り着けないこともあります。
現代であれば、「過ちて改めざる これを過ちという」と、検索すれば、
そのことばは、「論語」で書かれた言葉と、即座に知ることができます。
そのため、現代人はスマホで知識は得れますが、物事の脈略から覚えることが少なく、これが意識に定着しにくい要因ではないかと考えます。
少し脱線しましたが、ここで教えていることは、
本を読み、知識に蓄え、やってみて、工夫することで知恵になる
このような意味に感じました。
検索→コピペの便利さをどう評するかも気になりますが、それでもやはり抄録にはこだわるのでしょうか。
現代のツールを活用した『松下村塾』を覗いてみたいです。
父母の美名を顕わしてこそ志士といえる
「粗末な衣類を着、貧しい食事を恥じて、安穏な暮らしを求めるのは志士ではない。志士というのは道を志す士であって、すなわち君子である」と、松陰はいう。志士は衣食や食事の粗末さを恥じる必要はまったくないと断言するのだ。
「士は、倹約と吝嗇の区別を知らねばならない。吝嗇は己の私欲のためにするものだ。人に与える衣食財器をケチり、よこしまな欲望、悪知恵をもって人より奪い、贅沢に飲食をすることで、守銭奴となって死ぬのが落ちである。
一方、倹約は義を基としており、これは自らのためにするのではなく、人のためにするのである。衣食財器を倹約して、カネを蓄えて、出陣の際など主君のために用い、友人が困っているときには助け、貧しいものに憐れみを施すものである」として、倹約を促している。

【お金は目的をもって貯蓄し、必要なときに潔く使う】
【志士】命を投げ出して国家・民族のために尽くそうという高い志をもつ人。
「憂国の―」
志士という言葉自体、あまり聞き慣れません。
現代では、「お国のために」私財を差し出すことはありえません。
ですが、「自分に投資するため」お金を貯めるのは、立派な倹約だと思います。
松陰は、「目的を持たない守銭奴になるな」と戒めてます。
お金を貯めることが目的となってしまえば、一生に一度あるかないかの大切な時でさえ、お金を使うことが惜しくなり、好機を逃すことにもなりかねません。
貯めたお金は、目的のために潔く使うようにしたいです。
見た事、聞いた事は書きとめておくことが肝要
「書を読んだら、自分の感じる所を抄録しておきなさい。と、松陰に指導された」とある。
「今年抄録した箇所が、来年になれば、こんな所をなぜ抜き書きしたのかと愚かに見える。その翌年に抄録すると、前年のものが愚かに見える。それだけ年々自分の知識が向上している徴だ」
というのが松陰の理屈。

【同じ本でも、読み返すたびに抄録する】
行動するために、抄録する。
抄録するために、内容を吟味しながら読書する。
これを繰り返せば、物事を理解する「咀嚼力」が高まり、「本質を見抜く力」が備わります。
抄録した内容を自分の血肉にしていれば、次に同じ本を読んでも、感じ取る内容は変わってくるのです。
小人は外見を恥じ、君子は内実を恥じる
武道を興こそうとするならば、まず恥の一字より取りかからねばらなぬ。
それは恥を知ることであり、今日自分にとって一番の恥は何か?第二の恥は?第三の恥は?と順番に条立てして工夫するならば、本当に恥を知る武士になれる。
「そもそも恥の一字は、本邦の武士が常に口にするが、恥を知らないほど恥ずかしいことはない。しかも武士が恥を知らないこと、今日に極まる」

【心の目はいつも真実を記録している】
「己の恥を知らぬほどの恥はない」
キツイ一言です。
今日一日の行動を振り返りましょう。
そして、自分が行った「恥じ」について正面から向かい合います。
そして日記に記す。
カッとして、部下を頭ごなしに怒鳴ってしまったのか。
上司がいないことをいいことに、盛大にサボってしまったのか。
なぜこのような「恥」を犯してしまったのか、「なぜ」を深掘りし、自分の犯した「恥」と向き合い、根本原因を把握することが大切です。
自分の価値観で人を責めてはならぬ
自分の価値観を以って人を攻撃してはいけない。
一つの失敗でもって、すべてを判断してはならない。
相手の長所を取り上げて、短所は見ないようにする。
相手の心を察して、結果が悪くても許す。
そうすれば世の中どこへ行っても人は慕って集まってくる。

【気配りと思いやりが信頼関係を築く】
自分の価値観にとらわれるデメリットを知ることが大切です。
「狭い了見でモノを見る」という言葉がありますが、まさにこのことです。
了見を広く持つためには、自分から見た相手という一方的な見方だけでなく、相手から見た自分を分析する目(心)が必要です。
心をすっと相手側に立たせ、相手の心境を察しようとすれば、必然的に相手の話しに耳を傾ける姿勢になり、自分の了見だけでものを言うこともなくなると思います。
「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」ということわざがあります。
自分だけの狭い了見でしか思考できない人は「燕雀(小鳥)」であり、
様々な角度・立場から、あらゆる可能性を含め思考できる人を「鴻鵠(大鳥)」と、大別したとき、自分はどちらに属するのか冷静に分析することが大切です。
諫言できぬ者は、戦で先駆けもできない
徳川家康は、「およそ主君を諫める者の志、戦で先駆けするよりも大いに勝る」といっている。武功は名誉と利益のためにするのが普通だ。しかし、命にかかわる諫言は割に合わない。それでもあえて諫言する家臣こそ真の家臣であって、その功績は先駆けの一番手柄よりも上回るとして、家康は諫言の重要性を指摘している。
松陰は諫言することを恐れなかった。命を顧みずにする諫言こそ、武士の至誠の表れだったからである。

【よい土壌があって、よい諫言が届けられる】
組織のトップに対し、諫言した幹部が受ける最悪な仕打ちを考えてみます。
戦国時代:所領取り上げ。斬られる。
現代:干される。左遷。
現代では、さすがに命をとられることはないですが、人生を大きく左右する仕打ちに合う可能性はあります。
ということで、諫言は「割に合わない」というのは現代でも同じで、そのため「忖度」や「事なかれ主義」といった風潮になってしまうのだと思います。
ですが、徳川家康は大大名という絶対的な権力を持ちながら、部下の諫言をよく聞き評価しました。
感慨深いのは、絶対君主に対して諫言できる「雰囲気・空気」を作れる家康の度量の広さ、人格です。計り知れない信頼関係が部下との間に醸成されていたのだと思います。
松陰の「命を顧みず諫言する武士の至誠」は立派ですが、斬るか・斬られるかをそのまま現代にあてはめるには無理があります。
現代に求められるのは、家康が醸成した土壌のように、同じ目線に立って相談できる「環境」ではないでしょうか。
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