著者:藤原ていの紹介と代表作品
1918年11月6日、長野県茅野市にて誕生。
2016年11月15日(98歳没)
1943年に新京の気象台に赴任する夫と共に満州に渡る。
敗戦後の1945年、夫を一時残して子供を連れ満州より引き揚げ。
帰国後、遺書のつもりでその体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』はベストセラーとなった。
流れる星は生きている
発行日:1949年5月
発行元:日比谷出版社
昭和二十年八月九日、ソ連参戦の夜、満州新京の観象台官舎——。夫と引き裂かれた妻と愛児三人の、言語に絶する脱出行がここから始まった。敗戦下の悲運に耐えて生き抜いた一人の女性の、苦難と愛情の厳粛な記録。戦後空前の大ベストセラーとなり、夫・新田次郎氏に作家として立つことを決心させた、壮絶なノンフィクション。

これは「面白い!」と言えば、普通の小説では最大級の賛辞になるのだが、ノンフィクションで、しかも実体験を基に書かれた作品と考えれば感想は、「貴重な体験を拝読させていただいた」となる。
舞台は、終戦の1年前の満州。
新京から本土へ引き揚げするため汽車を使い南下するも、夫はシベリアへ派兵させられ、残った妻は3人の子供(6歳、3歳、1歳)を引き連れ夫の帰りを待つ。
ただ待つといっても、50名程度の集団生活を強いられ、住居環境は劣悪、資金も配給もなく食べる者もままならない状況で、子供3人の世話をする著者はひどく苦しい思いを強いられる。
日本本土への引き揚げの段階が進むにつれ、金も底をつき餓死するもの、仲間を売ってでも金を得ようとするものも増えてくる。
著者も子供3人を守るため、次第に狡猾に大胆に振舞うようになる心理変化は非常に共感できた。きれいごとでは生きていけないという言葉を具現化していた。
引き揚げルートは、新京→宣川→平壌→新幕→新渓→市辺里→開城→議政府→釜山→日本(博多)となるが、特に新幕~開城までの道中、わらじが擦り切れ、血を流しながらも裸足で山道を歩き、開城へ着いた後の足裏の手術のくだりは胸が苦しくなった。4歳の男の子が足の裏を傷だらけにしながら、その傷中に小石がめり込んでそれを除去する手術を受けることを想像すると涙がでた。
まとめ、(個人的な感情多めで、少し偏った感想となっています)
冒頭述べたように「貴重な体験を拝読させていただいた感謝」、ただこれだけだが、本当に深く感謝したい。
ぼくの母親は、5歳のときに満州から引き揚げてきたと聞いていたが、この本を読んで久しぶりに電話した。
5歳でも無蓋貨車のことはよく覚えているといっていた。
さらに、兄弟が5人おり、2人は満州で幼くして亡くなったことを聞いた。ぼくの記憶では、母親は3人兄弟と理解していたので、2人の死については母親の記憶から締め出していたということなのだろうか。
この本を読まなければ、満州引き揚げについて聞くこともなかったし、母親が本土へ戻れたことを「奇跡」と感じ、母親やその両親(ぼくから見れば祖父母)に対して深い想念を馳せることはなかったのだろうと思う。
今ここに自分が存在する「奇跡」をつくりだしてくれた『すべての人』に感謝したい。
評価:9/10点
コメント